野球短編小説「盗塁男」
彼は逃げる
とにかく逃げる
誰も彼を捕まえることなどできない
気を許したら最後
彼は確実に逃げる
彼に追い付くことは絶対にできない
どんなに足が速くても
彼には追いつけない
彼の足は速いなんて簡単な言葉では表現できない
凡人の目には見えないのだ
信じられないスピードで
彼は走り続ける
そんな人間離れした脚力を彼はなぜ手に入れたのか
天性の才能
そうではない
彼は生まれつき脳に障害をもっていた
言葉が理解できない
思考能力がない
彼はまともに生活する事ができなかった
彼の親は
そんな彼に嫌気がさし
ついには彼を公園に捨てて置き去りにした
彼はそこから動かなかった
なぜここに自分がいるかも理解できなかった
彼は生き延びるため本能で草や土を食べ続けた
雨上がりの水溜まり
彼はたくさんの水を飲んだ
そんな彼をおもしろがって公園に遊びに来た子供達は彼をいじめた
殴ったり蹴ったり
石を投げたりもした
そして彼は泣いた
痛いという言葉も知らず
ただ泣き叫ぶだけだった
しかしある日
彼はいじめにあったときに走って逃げるという行動を身につけた
ある日殴られそうになった彼は逃げだした
ひたすら逃げた
彼の脳はどこまで逃げれば助かるという事を認識する力がなかった
だから走った
彼はひたすら走った
どこまでも走り続けた
走り続けること数時間
気付けば知らない街にいた
彼は走るのをやめた
そしてまた泣き叫んだ
彼の体はゆっくりと地面に崩れ落ちた
そこへ
一人の老人が現れた
老人は泥だらけ傷だらけの彼を家へ招待した
しばらくして
老人は彼が脳に障害があることを理解した
老人は一人暮らし
数年前に妻に先立たれ
寂しい毎日を過ごしていた
そこへ彼が現れた
この日から老人と彼の共同生活が始まった
老人は彼に優しく接した
最初は怯えていた彼だが
日々老人と過ごすうちに
次第に老人のことを好きになっていった
そして数年後
彼に悲劇が訪れた
老人が突然倒れ帰らぬ人になってしまった
最愛の人を失った彼は家を飛び出した
どうすればいいか
彼にはわからなかった
ただひたすら走ることしかできなかった
彼は走り続けた
もちろん行く宛もなく
ただひたすら走り続けた
どこに着こうとも
彼が止まることはなかった
そんな彼を目にした人々は驚嘆した
目の前を通りすぎたものがなにかすら認識できない
彼は走り続けたことで
人間離れをした
恐るべき脚力を身につけていたのだ
そんな彼は
街の噂になり
そして噂が噂を呼び
自動車より速く走る彼を
マスコミが取り上げた
ついには世界的ニュースに発展した
彼を捕まえろ!
政府までが動き出した
この世のものとは思えない彼の脚力に世界が注目した
そんなことはつゆしらず
彼はまだ走り続けていた
逃げ続ける彼をマスコミは盗塁男と名付けた
野球用語で逃げるは盗塁を意味するからだ
盗塁男は逃げ続ける
もちろん捕まることはない
誰も彼を止められない
ある男がこう言った
「確かに野球用語で盗塁は逃げるを意味するが、実際は攻めている。相手に攻撃を仕掛けている。人は彼を逃げてると言うが、私には彼が世間に対して攻めているようにみえる。」
今もどこかで
彼は走り続けているだろう

生年月日 1986年 5月 6日